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東京地方裁判所 平成2年(ワ)251号 判決 1992年5月26日

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

理由

第一  請求

被告らは各自原告に対し、八六一万二二一七円及びこれに対する昭和六二年一一月二一日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、原告が、原告所有の建物付近で行われた被告東京都発注による下水道工事により地盤沈下が生じ右建物を毀損されたなどと主張して、被告東京都及び施工業者であるその余の被告らに対し損害の賠償を求める事案である。

主な争点は、右建物毀損及び右工事との因果関係の存否、和解(示談)の成否及びその効力である。

二  争いのない事実等

1  原告は、別紙物件目録記載の土地建物を所有し、右建物(以下「本件建物」という。)に居住している〔争いのない事実〕。

2  有限会社富士薬局(以下「富士薬局」という。)は、原告の肩書住所地を本店、原告を代表取締役とする会社であり、本件建物において薬局業等を営んでいる。

3  被告東京都は、被告住鉱開発工事株式会社、同鴻巣建設株式会社及び同株式会社滝沢組の建設共同企業体(以下「本件共同企業体」という。)に下水道工事(工事件名・葛飾区細田四丁目江戸川区西小岩五丁目付近枝線工事)を発注し、本件共同企業体は、昭和六二年二月二日から同年一一月二〇日にかけて、本件建物東側の都道及び北側の江戸川区道において下水道工事(以下「本件工事」という。)を行つた〔争いのない事実〕。

4  本件工事のうち、本件建物東側の都道(通称柴又街道)において行われた工事は、歩道部分を、本件建物との間に約二〇センチメートルの距離を置いて、開削工法により幅一メートル、深さ約二・五四メートルにわたつて掘削し、そこに下水管函渠を敷設するもので、右掘削に当たり土留めのため軽量鋼矢板を打設する工法が採られた。また、本件建物北側の江戸川区道において行われた工事は、本件建物から約四・三メートル離れた地点で深さ約三メートルの箇所に小口径管推進工法によりヒューム管の下水道管を敷設するもので、小口径管推進工法というのは、人力で掘削した立坑から小口径のリードパイプを圧密により到達部の立坑まで通したうえ、リードパイプの外側にヒューム管と同じ外径の先導管を入れて、スクリューで土を掘削し、先導管にヒューム管を繋いでいくという工法であり、高度の施工技術を要する半面、騒音・振動・地盤沈下等の環境公害が少ないという利点がある。なお、右北側区道における工事においては、道路と本件建物敷地が接する部分に設置されていたU字溝を撤去し、その跡にL字溝が設置されたが、右U字溝撤去の際に本件建物の土台に接する部分が三〇ないし四〇センチメートル掘り下げられ、その際本件建物の土台部分が一部毀損された。また、本件工事の影響により、本件建物敷地の東側道路に接する地盤面の一部が約二六ミリメートル沈下した〔争いのない事実〕。

5  本件工事完了後、右工事に起因する損害の補償についての交渉が行われた結果、平成元年三月一一日、本件共同企業体が一五七万六〇〇〇円の補償金を支払うことで合意が成立し、「東京都発注下水道工事に起因する本件建物に対する損害補償金については右金額をもつて和解することを承諾し、本件については貴社並びに東京都に対して今後一切異議を申し立てない」旨の富士薬局作成名義の和解承諾書が本件共同企業体に差し入れられ、同月三一日一五七万六〇〇〇円が支払われた。

三  争点

1  原告の主張

(一) 本件工事の結果、本件建物の敷地一体の地下水位が低下するなどし、地盤面が沈下するに至つた。そのため、本件建物の床が約四センチメートル沈下し、本件建物の北側壁面を覆つているトタン板が波打つ状態に変形する、北側出入口の扉の枠が歪んで扉が完全に閉まらない、内壁の壁板や北側ショウウインドーの枠板が撓む、一階店舗部分の床面に凹凸が生じる、二階部分においても窓のサッシュや扉が開閉困難になる、内壁と柱の間に隙間が生じる等の毀損が生じた。

また、原告は、本件工事に伴い発生した騒音、振動、そして本件建物が毀損されたことにより多大の精神的苦痛を被つた。

(二) 原告は、右建物毀損により、その原状回復費用相当額の六七七万三七一七円の損害を被つたほか、右原状回復工事に伴う休業損害として三三万八五〇〇円、右精神苦痛に対する慰謝料として五〇万円、以上合計七六一万二二一七円の損害を被つた。

原告は、右損害の賠償を求めるべく本件訴訟の追行を原告訴訟代理人らに委任し、その手数料及び報酬として一〇〇万円を支払う旨を約した。右弁護士費用は、被告らの後記不法行為と相当因果関係のある損害である。

(三) 本件建物の敷地一体の地盤は軟弱であり、かかる土地殊に本件建物の至近距離において地盤掘削工事を行う場合には、地下水位の低下、土砂の崩壊等により地盤沈下を生ずるおそれがあるから、施工業者としては、地質・地形・建造物に応じた十分な予防措置を講ずべき注意義務があり、また本件建物に居住している原告に対して受忍限度を超える騒音・振動被害を与えないような措置を講ずべき注意義務があるにもかかわらず、本件共同企業体はこれを怠り、原告に対して前記のような損害を被らせた。

また、発注者である被告東京都は、本件共同企業体に対し損害防止措置に関し適切な指示を行うべき義務があつたのに、これを怠つた過失がある。

(四) よつて、原告は被告らに対し、共同不法行為に基づく損害賠償請求として、前記損害合計八六一万二二一七円とそのうち弁護士費用を除く七六一万二二一七円に対する不法行為の後である昭和六二年一一月二一日から支払済みまで民法所定年五分の遅延損害金の連帯支払いを求める。

(五)(1) 被告ら主張の和解契約は、本件建物東側の店舗部分に生じた損害について、原告を代表取締役とする富士薬局が締結したものであつて、原告を拘束するものではない。

(2) 仮に右和解契約の当事者が原告個人とみなされるとしても、原告は、和解契約の当時、右契約が本件建物の東側部分に発生した被害の補償のみに関するものと誤信していたのであり、その旨を被告らに明示していたから、右和解契約は、原告の錯誤に基づくものであり、無効である。

2  被告らの主張

(一) 本件工事に起因して原告主張のような被害が発生したことは否認する。

(二)(1) 本件共同企業体と原告との間に、平成元年三月一一日、本件工事に係わる損害につき、(イ)本件共同企業体が原告に対して一五七万六〇〇〇円の損害補償金を支払う、(ロ)原告は本件について本件共同企業体並びに東京都に対し今後一切異議を申し立てない旨の和解(以下「本件和解」という。)が成立し、同月三一日、右損害補償金が原告に支払われた。

したがつて、仮に本件工事により本件建物に被害が生じたとしても、本件工事に起因する損害の補償については本件和解で解決済みである。

(2) 本件和解交渉は、原告個人と富士薬局が実質的に同一の当事者であることを前提として行われ、その結果本件和解が成立したものである。

(3) 原告は、本件和解は本件建物東側の店舗部分のみに関するものであると主張するが、原告が提出した補償請求書にも和解承諾書にも店舗部分に限定した記載は全くないし、原告は、本件共同企業体の担当者から本件工事による本件建物の損害補償金はこれですべてである旨申し向けられ、これを了承したうえで和解を成立させ、補償金を受け取つたのであるから、原告の右主張は理由がなく、また、本件和解に錯誤があるとの原告の主張も失当である。

第三  争点に対する判断

一  本件和解について

1  《証拠略》を総合すると、次のような事実が認められる。

(一) 原告は、昭和三一年三月本件建物及びその敷地を買い受けて、本件建物において薬局業を営むようになり、同年一一月二六日富士薬局を設立し、その後は法人たる富士薬局として右事業を営んでいたが、営業の実態は個人経営と実質的に異なるところはなかつた。

(二) 本件共同企業体は、本件工事に先立ち、昭和六一年一二月一九日、関係地区の住民に対する工事説明会を開いたが、原告もこれに出席した。右説明会には東京都下水道局及び江戸川区の担当者も出席して、工事の目的・内容・期間や排水設備について説明するとともに、損害補償に関する説明も行つた。原告は、右説明会での説明に従い、本件建物からの排水を本件工事によつて埋設される下水道管に流すための汚水桝の設置を申請し、本件工事においては右申請のとおりの汚水桝の設置工事が行われた。

(三) 本件共同企業体は、本件工事に先立ち、工事に伴つて生ずることのあるべき家屋の毀損による損害補償について証拠保存を図るため、沿道の各戸について家屋の立入り調査を行い、原告方についても調査を行うべく昭和六二年三月六日、七日の両日にわたつて担当者が訪問し、調査への協力を求めたが、原告はこれを拒否し、富士薬局の名義で家屋調査辞退届を提出したため、やむなく本件建物の外観調査を行うにとどめた。

(四) 昭和六二年一一月二〇日本件工事が完了し、同年一二月一五日竣工検査を終えたことから、本件共同企業体は、沿道の各戸に対しその旨を通知するとともに、工事の影響で建物等に異常が生じた件については後日事後調査を行う旨を予告し、工事現場の地盤が一応落ち着いたとみられる昭和六三年六月頃から事後調査に着手した。原告は、同年七月二五日頃、本件工事により本件建物正面(東側)の自動ドアとウインドーの一部が毀損され、店舗のコンクリート土間に亀裂が生じたとして被害申告を提出し、その補修費として約一四五万円を本件共同企業体に請求した。

そこで、本件共同企業体は、同年八月三一日、本件建物について被害調査を実施した。その結果、本件建物一階店舗の東側の自動ドアに地盤沈下によるものとみられる開閉不良及びサッシュ枠の歪みが発生し、ドア付近の土間にあつたクラックが拡大しているほか、同じ東側のショウウインドー下部の土間に隙間が発生若しくは拡大し、更に、店舗内の床間にやはり地盤沈下によるものとみられるクラックが発生していることが判明したが、本件建物北側の外壁及び基礎土台部分には、一部補修済みの箇所があるほかは、工事の前後で変化がみられないことが確認された。なお、原告は、本件建物の一階店舗部分の調査には応じたけれども、その余の部分については、その必要がないとして、調査を辞退した。

(五) 平成元年三月初め頃から、右被害調査の結果を踏まえて、原告と本件共同企業体との間で具体的な補償交渉が行われ、原告は、前記請求にかかる約一四五万円に営業補償及び補償の遅れによる金額を上積みした一七五万円を提示した。これに対し、本件共同企業体は、上積みを基本的に拒否しつつ、一五〇万円ぎりぎりで決着をつけるべく一四九万八〇〇〇円の補償額を提示し、原告も結局これに同意したため、本件共同企業体の担当者が右金額の小切手を原告方に持参したところ、原告はシャッター分として更に七万円余の上積みを求め、本件共同企業体もこれを容れて、一五七万六〇〇〇円の補償をすることで双方合意に達した。

(六) そこで、本件共同企業体は、原告に対し、「東京都発注下水道工事に起因する本件建物に対する損害補償金については右金額をもつて和解することを承諾し、本件については貴社並びに東京都に対して今後一切異議を申し立てない」旨の和解承諾書の提出を求めたところ、平成元年三月一一日付で「有限会社富士薬局代表取締役稲垣楢一」の印章の押捺された和解承諾書及び補償金請求書が本件共同企業体に提出され、同月三一日補償金一五七万六〇〇〇円が支払われた(右補償金の領収書も富士薬局名義で作成された)。

2  以上の事実に基づき、本件和解の当事者及びその効力について考えるに、右補償交渉は、本件工事に起因して本件建物に発生した被害の回復を目的として行われたもので、本来本件建物の所有者との間において行われる筋合いのものであり、本件共同企業体の側においてはそのような意識をもつて補償交渉に臨み、本件和解を成立させたものと認められる。したがつて、本件共同企業体としては、要するに本件建物に発生した被害についてその所有者との間で補償交渉が成立すれば足りたのであり、右所有者が原告個人であるか富士薬局であるかについては格別の注意をしていなかつたものと考えられる。そして、原告側の事情をみても、富士薬局の営業の実態は個人経営と実質的に異なるところはなかつたし、原告自身個人と法人とをしかくはつきりと区別していなかつたことは、原告が、本件訴訟において、本件建物において薬局業を営み、営業利益を挙げていたところ、本件工事による被害回復工事の期間中休業損害を受けると主張して、その賠償を請求し、右休業損害の証拠資料として富士薬局の決算報告書を提出していることや、前記家屋調査辞退届を富士薬局名義で提出していることなどに端的に現れている。

そうとすれば、前記和解承諾書及び補償金領収書は富士薬局名義で作成されているとはいえ、本件和解はむしろ本件建物の所有者である原告と本件共同企業体の間において成立し、補償金も原告が受領したものと認めるのが相当であり、そう解することこそ当事者の客観的・合理的意思に副う所以であると考えられる。右認定に反する原告本人の供述は採用することができない。

3  原告は、本件和解は本件建物の東側部分に生じた被害のみに関するものであると主張し、原告本人も右主張に副う供述をしている。しかし、右主張の理由がないことは、本件和解に至る前記認定のような経緯に照らして明らかであり、本件建物の北側部分に生じた被害については別に請求する旨を本件和解の際に本件共同企業体の担当者に告げた旨の原告本人の供述は、証人小林静男の証言に照らして、信用できない。

4  また、原告は、本件和解は本件建物の東側部分に生じた被害のみに関するものであると誤信していた旨主張するが、右錯誤の主張が理由のないものであることは、前記認定のような事実関係に照らして明らかである。右主張に副う原告本人の供述は信用できない。

二  以上によれば、本件工事に起因して本件建物に発生した被害については本件和解によつて解決済みであり、原告は、前記損害補償金をもつて和解し、爾後被告東京都及び本件共同企業体に対して一切の請求をしないことを約したのであるから、右和解の趣旨に反してされた本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、失当として棄却を免れない。

(裁判官 魚住庸夫)

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